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1929年のウォール街の大暴落でさえ

第一次世界大戦後、アメリカの「狂騒の20年代」と言われた株式バブルは、1929年のウォール街の大暴落で終わりを告げました。その後の世界大恐慌は、第二次世界大戦を引き起こすに至っています。
NYダウは、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後、1932年7月8日の最安値41.22まで下げ続け、最高値と比べると89%の下落となります。そして、1929年の水準に戻ったのは、1954年11月23日。つまり、25年もの年月を費やしたのです。

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経済成長と景気振興は相反する

19世紀の終わり頃の日本では、20万台の人力車が営業していたそうです(それに見合う人が人力車を引いていたことになります)。しかし、昭和に入り、自動車に取って代わられて姿を消していきます。当然、人力車を引いていた人たちは失業したのですね。ここで、政府が取りうる政策は、3つです。

1 人力車産業の衰退による失業者が、新たな成長産業に転職できるように支援をする。
2 何もしない
3 失業が発生しないように、人力車産業に補助金を垂れ流し続ける。

普通に考えて、ベストは1番です。もし、当時の政府が、(人力車産業に限らず)あらゆる衰退産業に3番の政策を取り続けていれば、今頃、恐ろしい財政赤字に苦しみ、かつ、世の中の進歩は妨げられていたことでしょう。
経済成長とは成長産業が衰退産業を駆逐することですから必ず痛みを伴います。一方、景気振興とは、痛みを和らげることです。そもそも、相反する部分があるのです。

テレビで経済討論番組を観ていると、話が噛み合っていないことがよくあります。一番多いのが、経済成長と景気回復を混同していることです。そこで、私なりにちょっと、この関係を整理してみます。

いいでしょうか。例え話です。

経済成長のモデルとして、よく説明に出されるのですが、離れ小島に12人の住人が住んでいるとします。この12人は自給自足で農業をしています。生産性は悪く、1人が働いて、1人分の農作物しか採れません。よって、全員が農業に従事しています。農業以外のことをする余裕はどこにもありません。
やがて、住人の農業スキルが向上したとします。1人につき、2人分の農作物が採れるようになりました。つまり、住人全員12人分の食料を生産するには、6人で足ります。あとの6人は、農業に従事する必要がなくなります。失業です。
しかし、失業した6人が別の仕事を始めました。農機具の制作とか、肥料づくりとか、治水土木工事とか。一方、農業に留まった6人の懐具合を見ると、1人につき2人分の食料を生産していますので、1人分の食料が過剰です。よって、その過剰分を換金して、農機具、肥料、等を購入します。
こうして、さらに農業生産性がよくなり、1人につき3人分の食料が生産できるようになりました。すると、農民が3人いれば全員の食料をまかなえることとなり、さらに農民6人のうち3人が失業です。そこで、その3人は、娯楽産業などサービス業を始めました。今では農民3人が、全島民12人の食料を生産し、他の9人が物づくりやサービス業に従事しています。

このようにして、生産性がどんどん良くなると、農業従事人口は減っていき、一時的に失業が発生し、新しい産業が興り、そして、全員が物質的に豊かになります。

以上が、供給サイドから見た経済ですが、ここでわかることは、経済が成長するとは、生産性が向上することであり、一時的に勝ち組と負け組に分かれて失業が発生するものの、最終的には全体の豊かさが増すということです。繰り返しますが、成長には必ず痛みが伴うのです。

タイムラグがありますので、あまりにも痛みがひどいと、待っていられないこともあります。そうしたときには、需要を拡大する景気刺激策が必要になることもあります。しかし、需要創出を自己目的化したやりかたは、栄養増強剤を飲んで一時的に元気になるようなもので、根本的な問題解決にはなりません。

現実の世界に置き換えて考えてみると、小泉・竹中路線は、すべて正しかったとは思いませんが、おおまかにいって経済成長路線を辿っていました。しかし、民主党菅政権は、この経済成長路線を否定しています。その結果、希望もないままに痛みが大きくなっていっています。考え方が間違っているのですから、頑張れば頑張るほど、悪くなります

小さな政府の前提として

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)は、アジア最貧国バングラデシュ発ブランドのマザーハウスを作り上げた山口絵理子さんの自伝エッセイです。読むと元気が出てくる本なので、お薦めですが、彼女が体験したバングラデシュ社会の実情は強烈でした。役所に水道を通してもらうのも賄賂、交通事故で警官に救急車を呼んでもらうことも賄賂、取引先と契約しても、労働者を雇っても、持ち逃げ……..、誰も信用できない社会では、安心して経済活動ができない、ということがよくわかります。それでもめげないところが、彼女の素晴らしいところなのですが、ほとんどの人は、そうはできないです。

著名ブロガーであるChikirinさんのエントリー「アフリカが発展しない理由」も、アフリカの国々を例に、同じようなことがわかりやすく書かれています。アフリカは今、資源高で、ぱっと見は好景気ですが、富がますます一部に偏っています。是非、リンク先のChikirinさんのエントリーを読んでください。

道徳心のない社会では、経済は発展できないのだということがわかります。道徳と経済は、無関係ではないということがわかります。

これらの経済底辺停滞国と比べると、日本の国はまだまだ道徳心が残っているということがよくわかります。道を歩くときに、泥棒がいないかきょろきょろする必要はないし、暑い夜は窓を開けてぐっすり眠ることもできます。簡単な契約は口約束で可能です。

私が大学生の頃、授業でプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)」を読みました。中世までは後進国であった西欧で資本主義の花が開いたのは、宗教改革によって生まれた宗教心の篤いプロテスタント信者の勤勉さと堅実さ、にあるとした名著です。

また、アダム・スミスの有名な言葉「神の見えざる手」も、市場原理主義のキャッチフレーズのような誤解を受けていますが、実際には「道徳的な社会では」という前置きがついています。経済の基礎は信用なのです。日本では、国民は「国は信頼できない」と口にはしても、国の発行する通貨は信頼しています。円を受け取るなり慌ててすぐに他通貨に交換したりしません。しかし、国民が自国通貨を信頼しない国は、世界に山ほどあります。

さて、理想的に道徳的な社会を想像してください。ここでは、犯罪の頻度も低いため、治安にもお金がかかりません。ゴミのポイ捨てもないため、道路維持費用は安くてすみます。もっと極端な話、超・道徳的な善意の人ばかりの社会では、福祉はすべて自発的なボランティア行為でまかなわれてしまうため、役所は福祉行政を行う必要がないのです(極端な仮の話です)。こういった社会では、「小さな政府」が最も効率的であり良く機能します。

逆に、バングラデシュやアフリカのような社会では、小さな政府は、無法国家を意味します。政府ががんがん介入せざるを得ません。

つまり、こういうことです。

道徳を重視する人たち(保守派と呼ばれることが多い)は《小さな政府》を目指します。教育、福祉、まちづくり、そういった一つ一つの施策では、役所がするよりも、市民が自ら行うことを選択します。市民の善意が発動される場面が増えるからです。乱暴を承知で単純化すると、下の図のようになります。

ちょっと乱暴な単純化ではありますが、本質は外していないと思います。

政府(役所)というのは、本質的に《非効率》なものなのです。これは、公務員が怠けているとか、そういう問題ではありません。「効率」と「公平」は、相反します。そして、役所は、その性格上、「公平」を優先せざるを得ないのです。大きさ政府か、小さな政府かの選択は、「公平」を道徳で担保できる社会であるか、それとも制度で担保するしかない社会なのか、で決まってくるのではないでしょうか。

しかし、道徳のないままで《小さな政府》になってしまえば、どうなるでしょうか。つまり市場原理主義の社会です。想像するまでもなく、あまり住みたい社会ではないですよね。法の抜け道を探し、他人を出し抜こうと生目を抜くような社会、これは結局、本質的な活動以外のところに費用をかけざるを得なくなり、高コストで自滅するしかないでしょうね。

ちなみに、私は、道徳の基礎は「自律」だと思っています。自分のことはさておいて、他人に要求するものとは思いません。道徳教育の大切さを主張する政治家が、愛人との不倫旅行を週刊誌にすっぱ抜かれたり、こういった、「道徳を声高に主張する輩」こそ、もっとも胡散臭いと思っています。保守とは、謙虚を美徳とし、慎み深さを求め、極端より中庸を愛する生き方のことではないでしょうか。「保守」とは激論で主張するものではなく、背中で生き方として見せるものではないでしょうか。

投稿「サリム氏のインタビューより」で、「技術移転だけ発展途上国におこなっても、うまく機能するとはとても思えない」と書きましたが、その前提として、経済と道徳の関係について書いてみました。